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公務員面接対策で運がつき内定へ

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そして、最も運が強い徳川家康にあやかりましょう。

徳川家康は、一五四二年(天文十一年)十二月二十六日、三河の岡崎城主の松平広忠の子として、岡崎城に生まれた。

松平家の九代目で、幼名は竹千代。

六歳のときから、織田家、今川家の人質となる。

桶狭間の戦いで今川義元が死に、今川家の支配下を離れ、独立した。

その後、織田信長と同盟を結び、三河国を平定した。

その後は、秀吉の天下統一に協力した。

秀吉の死後、最大の実力者となる。

関ヶ原の戦いでは豊臣恩顧の大名の武功派をまとめていた。

関ヶ原の戦い後、武蔵相模伊豆上野他二百五十六万石から四百万石。

関ヶ原の戦いから三年後、征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開く。

その二年後、秀忠に将軍職を譲り、駿府に移った。

大坂の陣の後、一六一六年(元和二年)、七十五歳で亡くなった。

以上が家康の簡単な略歴である。

家康の幼少期は、波乱に満ちていた。

父は、三河の岡崎城主の松平広忠。

母は、刈谷城主の水野忠政の娘の於大(伝通院)。

三歳のとき、父と母が離縁した。

松平家は、今川家、織田家らの大勢力に圧力をかけられていた。

父の松平広忠は今川家を頼っていた。

一方、母の兄の水野信元は織田信秀(信長の父)と主従関係を結んだ。

妻の実家は織田方となった。

そのため、松平広忠は妻と離縁した。

家康は、三歳で母と別れた。

その後、今川義元から竹千代(家康)を駿府に人質に差し出すように命じられた。

家康は、六歳で、父とも離された。

そして、駿府の今川義元のもとにおくられようとした。

駿府の今川義元のもとに行く途中、渥美郡の田原に立ち寄った。

田原城主の戸田康光は、家康らを、海路、駿府とは正反対の尾張に連れて行った。

家康は、尾張の織田信秀に奪取された。

織田家で人質となった。

家康は、二年間、尾張で過ごした。

織田信秀は、家康を人質として、松平広忠に織田家につくように要求した。

しかし、松平広忠は、今川家に抑えられているため、織田信秀の要求を拒否した。

その二年後の一五四九年(天文十八年)三月、松平広忠は、家臣に殺された。

家康は八歳で父を失った。

その後、同年の十一月、今川義元は、織田信秀の子の織田信広(信長の兄)を人質にした。

今川義元は、織田信秀に竹千代と織田信広の人質交換を要求した。

家康は、一旦、岡崎城に戻ったが、駿府に人質として向かった。

家康は、今川家の人質として歳から十九歳までの十二年間、駿府で過ごした。

今川家の軍師の太原雪斎から訓育を受けた。

一五五五年(天文二十四年)、十四歳のとき元服して、竹千代から松平次郎三郎元信と名乗った。

元の字は、今川義元の一字を与えられた。

一五五七年(弘治三年)、十六歳のとき、今川家の姻戚で、家臣の持舟城主の関口義弘の娘と結婚した。

関口義弘の妻は、今川義元の妹。

そのため、関口義弘の娘は、今川義元の姪にあたる。

妻は、後に築山殿と名乗る。

その二年後の一五五九年(永禄二年)、家康と築山殿との間に、嫡男の信康が生まれた。

翌年、織田信長は、桶狭間の戦いで、今川義元を討った。

今川義元の死により、家康は、岡崎城に、十二年ぶりに戻った。

その後、家康は、織田信長と同盟を結んだ。

一五六三年(永禄六年)、松平家康と改名した。

今川の人質時代には、元信、元康と今川義元の元の字が入っていたが、元の字がなくなった。

同年、織田信長から、家康に対して、家康の嫡男の信康に信長の娘の徳姫を輿入れしたいとの申出があった。

当時、二人は五歳であった。

織田と松平の関係の強化を図り、築山殿と今川家との関係にくさびを打つためであった。

その四年後の一五六七年(永禄十年)、信康と徳姫は結婚した。

そして、十四年後、一五八一年(天正七年)、徳姫は、築山殿と信康が武田家と内通していると信長に知らせた。

信長は、家康に、築山殿と信康の死を命じた。

家康は、熟慮した結果、信康に切腹させ、築山殿は暗殺した。

特に、幼少期にはつらいことが多かった。

しかし、その分、関ヶ原の戦いとき、一気に運が来た。


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