公務員面接対策は戦い

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大坂冬の陣~戦意高揚

一六一四年(慶長十四年)十二月一日、家康は、住吉に本陣を置いていた。
徳川方と豊臣方の小競り合いはあった。
例えば、大坂城の西側の外曲輪の外濠に高麗橋などのいくつかの橋が架かっていた。
豊臣方は、それらの橋を焼き落そうとした。
それを見た徳川方の石川忠総は、博労ヶ淵の砦を攻め、占拠した。
それ以外にも、小さな戦いがあった。
家康は、味方の徳川方に戦意を感じられなかった。
(戦意を高揚させる必要がある。
士気を鼓舞する工夫をしよう)
信長は、このような感覚が大将には必要。
兵ががんばるような環境づくりをすることである。
信長は恐怖を与えて、兵をがんばるように仕向けた。
秀吉は工夫することで、兵の士気を高め、がんばる環境を整えた。
家康は信長と秀吉に比べて日本的な感覚で環境を整えた。
信長は鳴かぬなら殺してしまおうホトトギス
秀吉は鳴かぬなら泣かせてみようホトトギス
家康は鳴かぬなら泣くまで待とうホトトギス
三者三様の考え方。
また,違う上司像であった。
ちなみに、英語には、「がんばって」という表現はなく、あえて言えば「Good Luck」が該当する。
信長は、関ヶ原の戦いのころ、このような感覚を持った大将が多かったが、今は少なくなったなと思った。
家康は慎重ではあるが、決断すると行動は早い。
家康は、本多正純に徳川秀忠のもとにいる、
「本多正信と土井利勝を呼べ」
と叫んだ。
両人は、住吉の家康のもとに駆けつけた。
家康は、「秀忠の陣立てを替える」
と言い、
井伊直孝の陣替えを命じた。
また、
「秀忠に後で前田陣に来るように」
と付け加えた。
具体的には、家康は、井伊勢を大坂城の惣構えの南の八町目口に陣替えするように指示した。
井伊勢に先陣切って、攻めさせようと思っていた。
関ヶ原の戦いでは、井伊直政が抜け駆け気味の先鋒となり、勝った。
井伊家は、縁起がよい。
井伊直孝は、関ヶ原の戦いで、軍監として武功をあげた、井伊直政の次男。
長男の井伊直勝は、近江の彦根十八万石を継いだが、病気のため、大坂の陣に出陣できなかった。
そのため、次男の井伊直孝が四千を率いて、大坂の陣に着陣していた。
十二月二日朝、家康は、突然、大坂城の周辺を見に行くと言い、茶臼山に向かって、単騎、駆けた。
家康は、敵地に入り、さらに慎重になっていた。
自分の行動を事前には伝えなかった。
事前に話すと、敵に待ち伏せさせるなどの危険が伴うため、話さなかった。
家臣は、慌てて家康の後を追った。
茶臼山に着いた家康は、陣所の工事を見た。
そして、
「四日には、茶臼山に入る。急げ」
と叱咤激励した。
家康は前線に向かって進んだ。
家臣も家康を囲むように進んだ。
小橋村の篠山の前方に真田丸が見えた。
家康はじっと見た。
直感した。
あれを正面から攻めたら、味方の損害が大きくなる。
信長は、カンがいいことがよい武将の絶対条件であると思っている。
家康、秀吉は直感が鋭い。
その後、家康は前田利常を訪れた。
家康は、
「城攻めは、あせって行ってはならない」
と語気を強めた。
「城攻めの塹壕をつくってから、攻撃を開始」
することを指示した。
また、真田丸に近寄らず、
「大砲で真田丸を撃て」
と言った。
次いで、前田家の家老の本多政重に話しかけた。
三十三歳の本多政重は、本多正信の次男。
本多政重は、本多正純の弟にあたる。
本多正信の次男の本多政重は、一五九七年(慶長二年)、徳川家を出ていった。
その後、宇喜多家に仕えた。
本多政重は、関ヶ原の戦いで、西軍の宇喜多勢として東軍と戦った。
その後、福島家、前田家に仕えた。
一六〇五(慶長九年)、上杉家の家老の直江兼続の娘の婿になった。
出入りが多かった。
本多正信は、一五三八年、生まれた。
本多忠勝とは、先祖が同じ。
三河一向一揆では、家康と対立した。
その後、諸国を放浪した。
大和の松永久秀のもとに身をよせたこともあった。
松永秀久は、
「徳川の家臣は武勇の士ばかりかと思っていたが、本多正信は、政治的な手腕がある」
と評した。
その後、大久保忠世の仲介によって、徳川家に戻った。
家康の謀臣として、政治、行政面で活躍した。
そのため、徳川家の武功派の大名から反発を受けていた。
そのことを自覚していたため、二万二千石の大名に留まっていることをよしとしていた。
嫡男の本多正純に加増を受けてはならないと遺言していた。
しかし、本多正純は、宇都宮十五万五千石の加増を受けた。
その後、本多正純が謀反をしようとしたとして、本多家は断絶。
本多政重は、現在、徳川方の前田家の家老で五万石。
家康は、本多政重と話した。
その後、将軍の徳川秀忠は、家康のもとに駆けてきた。
家康と秀忠はともに前線に出掛けた。
家康は、大きな声で、たわいもない話をした。
高齢の家康と秀忠を見た徳川方の士気はあがった。
信長は、家康が上手くやったなと思った。

真田丸への攻撃

前田利常は、家康に言われた通り、塹壕をつくろうとして掘り始めた。
幸村は、工事を始めたのを見ていた。
忍びによると、家康が前田陣などを訪れ、前線に出て、士気を高めたという。
その後に、前田勢が工事を始めた。
(家康に指示か。
真田丸を力攻めで攻めて来るのを待っていることを見破ったか。
さすが家康。
家康が出て来なければ、どんなに戦いやすいか)
と幸村は思った。
手を打とう。
工事の邪魔をした。
幸村は真田丸の南にある篠山に兵力を集めた。
そして、塹壕をつくっている前田勢に鉄砲を撃ちかけた。
前田勢は工事を中止せざるをえなかった。
十二月三日、徳川秀忠は、膠着状態を打開するため、前進の指示を出した。
徳川方は、竹を束ねて盾にした竹束を盾にして前進した。
豊臣方は、鉄砲を放った。
鉄砲の音が響いた。
三日の夜になり、雨が激しく降ってきた。
前田の本多政重は雨が激しく降るのを見ていた。
雨では鉄砲が使えない。
暗い夜のうちに篠山を占拠してしまおう
と考えた。
本多政重は今夜の篠山の攻めを決めた。

真田丸の快勝

十二月四日午前二時、雨はまだ降っていた。
本多政重は篠山への出撃を命じた。
前田の右先鋒として本多勢が篠山に向かった。
竹束を前にして、気づかれないようにゆっくり前進した。
そして、篠山の麓に鉄砲除けの陣地をつくることに成功した。
本多政重は、
「篠山に攻めかかれ」
と命令を下した。
本多勢が鬨の声をあげて、駆けた。
本多勢は、鉄砲を放った。
鉄砲の応戦はなかった。
人の影もなかった。
真田幸村は、忍びから、前田勢の篠山への攻撃を事前に知っていたため、撤退させていたのである。
本多勢は、敵のいない篠山を占拠した。
本多政重はじめ、本多勢は、拍子抜けした。
徳川方は前田の本多勢が篠山を占拠したのを見ていた。
徳川方の井伊勢、松平勢らは前進した。
前田勢の本陣は前進しなかった。
井伊勢らは八丁目口、松平勢らは谷町口に迫った。
大坂城内から鉄砲が放たれた。
徳川方は巧妙争いをした。
興奮状態となった。
信長は、関ヶ原の戦いのとき、豊臣恩顧の大名が武功を争い、前に進んで、勝ったのを思い出した。
しかし、それとは違うなと思っていた。
篠山を占拠した本多勢は、真田丸に向かった。
篠山と真田丸の間に大きな泥池がある。
篠山を下り、泥池の東から真田丸に近づいた。
前田利常は、家康に言われたこともあり、前進を躊躇していた。
本多政重の増援の要請の使者が次々に来た。
そのため、千の部隊を編成して、真田丸に前進させた。
このとき、八丁目口の惣構えの中の櫓から火が出た。
徳川方の藤堂高虎に内通していた南条忠成は、大坂城の内側から火を放ち、徳川方の先鋒を引き入れると密約をしていた。
信長は、関ヶ原の戦いの伏見城攻めのとき、伏見城内の甲賀武士が内応して、火をかけ、西軍を伏見城に引き入れたことを想い出した。
しかし、あのときと違うなと思った。
その直後、大坂城内からの鉄砲の音がやんだ。
藤堂勢は、密約通り、火を放ったと思い、前進した。
徳川方は、八丁目口に突進した。
そのころ、前田の本多勢は、真田丸に向かっていた。
竹束を前に、鉄砲に撃たれないように進んだ。
組織には内部対立がある。
前田家にも内部対立があった。
前田家の内部は、譜代の家老の横山長知らと新参者の本多政重の仲が悪かった。
横山長知は、前田利家が織田家に仕えたときから前田家に仕えていた。
前田の横山勢らは、本多勢が篠山を後にして、真田丸に進んでいるのを見た。
「本多に負けるな」
との声が出た。
前田勢は競い合うように前進した。
夜で、濃い霧が立ち込めていた。
見えにくい。
前田勢の兵たちは方向を見失った。
真田丸の濠の前に人々が押し掛けた。
濠の中に落ちた兵もいた。
本多政重は鉄砲隊を前に出した。
一斉に鉄砲を放った。
真田丸から、鉄砲の応戦はなく、静まりかえっていた。
真田幸村は、
「まだ、動くな」
と指示した。
真田勢の中には、
今、攻めれば、大勝利である。
なぜ攻めないか
と思っている兵もいた。
膠着状態が続いた。
夜が明けて、霧がはれてきた。
真田幸村は、父とともに戦った上田城の戦いで徳川方を怒らせて突撃させた。
引きつけておいて、一斉に攻撃した。
また、徳川内部の対立、武功争いを利用した。
その結果、味方の損害がほとんどなく、大勝利した。
(怒らせよう。
そして、武功争いをさせようと思った。
家康が士気を鼓舞したことを逆に利用しようと考えた)
真田幸村は、とびきり声の大きい者を呼んだ。
そして、話す内容を告げた。
その者は、前田勢のそれぞれの大将の氏名を述べて、前田勢がいかに臆病であるか
と大音響で叫んだ。
その声は、その周辺の徳川方にも聞こえた。
その直後、真田丸から笑い声が聞こえた。
真田勢は前田勢を挑発したのである。
前田勢は激怒した。
本多政重は、篠山を攻めたにもかかわらず、裏をかかれてたこともあり、怒りが浸透していた。
「敵の手に乗ってはいけませぬ」
と諌める家臣もいた。
しかし、我慢ならず、
「たたき潰せ」
と軍配を振った。
濠に入り、濠をあがり、真田丸の城壁を登り始めた。
前田の横山勢らも続いた。
前田勢は真田丸に接近した。
真田幸村は、
「まだ、撃つな、手を出すな」
と命じた。
前田勢は一斉に攻めてきた。
「十分に引きつけるのだ」
「まだだ」
真田勢も興奮してきた。
城壁に数百人が登った。
そのとき、
「撃て」
と大音響がひびいた。
鉄砲が一斉に火を噴いた。
石が転がってきた
弓も飛んできた。
前田勢は、鉄砲、石、弓の集中砲火をあびた。
濠の中に次々に落ちていった。
鉄砲の音が鳴りやむと真田丸の門が開いた。
真田幸村の長男の真田大助幸昌、伊木右衛門らの五百が突撃した。
前田勢には向かわず、前田勢の西隣の松倉重政らの陣地を攻めた。
真田大助らは、徳川方を翻弄した。
そして、さっと真田丸に引き上げた。

真田の戦法

信長は、徳川が上田城を攻めたときと基本的に同じ作戦をとったと思った。
真田幸村が父の真田昌幸と同じような作戦で勝利した。
徳川方の功名心、武功を争う心理を利用し、挑発して怒らせ、攻めさせた。
そして、十分に引きつけて、鉄砲、石、矢を嵐のように放った。
その後、出撃して、攪乱した。
真田家の上田城を徳川方は、二度、攻めた。
一五八五年(天正十三年)の第一次上田戦争(神川合戦)では、まず、真田信之が、神川に出て、徳川方を見ると退いた。
そのため、徳川方は、簡単に勝てると思い、上田城に向かって殺到した。
そして、真田勢は、徳川方を挑発した。
武功を上げようと、勇んだ徳川方は、上田城の町下に入った。
真田勢は、一斉に鉄砲を放ち、石を投げ、矢を放った。
その後、上田城から、騎馬隊を出するともに、身を隠していた伏兵も攻撃した。
一六〇〇年(慶長五年)の第二次上田戦争で、真田昌幸は、当初、降伏をするようにみせかけた。
そして、時間を稼いだ。
その後、降伏を拒否した。
徳川方は、激怒して、上田城攻めを決めた。
真田勢は、徳川方が刈田しているのを見て、兵を出した。
小競り合いをして、城に退却した。
退却する真田勢に誘われて、徳川方が上田城を攻めた。
真田勢は、一斉に鉄砲を放った。
真田幸村が城から出て攻撃した。
このように真田勢は信州で徳川勢に勝った。


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